硫黄鳥島全島移住のときの島尻郡長 齋藤用之助

 

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 沖縄県島尻郡の郡長を明治31年4月から大正4年4月まで勤めたのが、佐賀県新北村(現諸富町)出身の齋藤用之助であった。

 彼の島尻郡長時代の辞令や記録等は、「南部振興会」(島尻博物館(現在はない)という施設の設置母体とのこと)という団体に寄贈され、現在は沖縄県立博物館に寄託されている。

 そして、この目録と資料の写しが、「南部振興会」により、1999年に「元島尻郡長 第11代齋藤用之助資料」として本になっている。

 以下はこれを典拠としている。

 

齋藤用之助は安政6年に生まれ、長崎県の巡査を経て明治12年8月に沖縄県の巡査となった。

 彼が沖縄県の巡査になったのは、初代沖縄県令鍋島直彬(最後の鹿島藩主)に伴い、沖縄県の役人になった家臣の野口能毅(後の佐賀市長)の朋友、大塚敬元の学友であった縁とのことである。

 その後、中部郡長兼首里区長をへて、明治31年4月に島尻郡長兼那覇区長となった。(明治41年に那覇区制廃止)

 

島尻郡長在職時の業績として、島袋良徳氏「元島尻郡長の業績の概略」によれば、那覇と結ぶ道路の整備、農道整備と農業用水の開発、貸費留学生制度、島尻郡立農学校、水産学校、女子徒弟学校の設置、農業試験場の設置、現東風平町の総合運動場の整備、製糖工場の機械購入の世話、港の開削、硫黄鳥島住民全員の久米島への移住と多岐にわたり、管内をまわる際に喜んでヤギを食したとのことで、「ヒージャー郡長」と呼ばれ、退任送別会には郡内から東風平の運動場に1万人集まったとのことである。

なお、退任後も、沖縄にとどまった。

 

 上記のうち、港の開削というのは、明治37年の大旱魃にあたり、政府からの1800円の救助金をもとに、摩文仁間切に、リーフを開削して港をつくったものであり、この意図は、近隣の知念が港を持ち漁業を農業とともに行っているがゆえに、農業の被害によるダメージが小さかったことと工事による給金を被害を受けた住民に与えることであったとされる。

 

 この港は明治40年に完成し、発案者である齋藤用之助の名をとり、「用之助港」と名づけられた。また、これのある浜は、実際に工事を指揮した摩文仁間切の長の名をとり、「蒲助浜」と名づけられた。現在も港はある。 

 ただし、この港は、当時を知る現地の古老談によると、リーフの開削により内海の水位が下がり、大型の船がはいれないことや、糸満と違い、それまで、漁業を行ってこず、技術を持ち合わせていない地元の者は、ここを拠点に漁業を盛んに行う意思を持てなかったという難点があったとのことである。

 

硫黄鳥島住民移住については下記のとおりである。

沖縄県の最北端の島は硫黄鳥島という現在は無人島で、徳之島の西にあり、奄美諸島の沖永良島や与論島のはるか北に位置する。

 奄美諸島は薩摩藩の支配下にあったが、この硫黄鳥島はその位置にもかかわらず、琉球王国の版図として扱われ、明治12年の琉球処分により沖縄県に属した。

 これについては、この島から産する硫黄を中国との貿易に使うために琉球王国に置いた方が良いとする薩摩藩の意図があり、代わりに薩摩藩は与論島を割譲させたと、齋藤用之助はその記録(「鳥島移住始末」)で書いている。 

 現実に硫黄は、建国当時の明がモンゴルの勢力を駆逐するための火薬原料として必要な品物であり、馬とならび、初代洪武帝がこれらを産する琉球に入貢を促す機縁となったものであり、以後も琉球からの輸出品となっている。(高良倉吉「琉球王国」)

 

また、琉球王国時代は久米島を中心とした久米方に属しており、現在の感覚とは異なり、久米島が、沖縄本島より西に点在する島々の中心であったことがわかる。

本島西岸に浮かぶ伊平屋島や伊是名島も久米方に属しており、現在も久米島が属する島尻郡に属する。なお、伊江島は国頭方に属し、現在も国頭郡である。

そして、硫黄鳥島も沖縄県島尻郡に属した。

 

 硫黄鳥島は明治に入っても硫黄を採取を生業とする住民がおり、硫黄以外に産物がないため、硫黄を上納する引換えに扶持米が支給される、琉球王国時代からの制度が続いていた。また、生活は窮乏していた。

 しかるに、明治16年に年額米300石の3年分(現金2500円)を一時に下付し、その利子をもって扶持米に代える制度となり、更に住民が窮乏したため、明治21年には硫黄の上納が免除された。

 学校もなく、齋藤用之助の記録によれば、明治36年頃文字が読める者は700人程度の人口のうち5人程度だったとのことである。

 

 そして、明治36年4月に、硫黄採掘坑辺が爆発し、齋藤用之助は全島民の移住を決断したものである。

 この際、島民の中には、硫黄鳥島には温泉があり、これが体によいから移住には反対などといった意見もあったようだが、結局、村の決議により移住することとなったものである。

 なお、沖縄では「村」は現在の「字」の古称で、行政村ではなく個々の村落共同体をいう。 

 

移住先は久米島具志川間切の大田村となった。このことからも、久米島が本島西側の島々の中心とみなされていたこと、そして、現実に移住してくる島民を受け入れる余力のある島が久米島であったことがわかる。

現在の感覚では本島に移住するのではないかと思うがそうではない。

また、村が持っていた財産は移住後も間切ではなく、「字鳥島」が所有を続けることとなり、その処分の議決機関(字区会)が硫黄鳥島の住民により組織されることとなった。これは、齋藤用之助によると他に例を見ない取り計らいであった。

 

 一方、受け入れ側の具志川間切では、下記のとおりの決議を行った。(片仮名を平仮名に変えた)

 

一、     一、宅地は大田村字仲泊馬場、並に其附近の村有地、及び之に接続せる民有地を選定し、其面積凡そ一万五千坪とす、

馬場及び村有地は無代価とし、民有地は凡そ二千五百坪、其中耕地五百坪、此代金一坪に付き参銭とし、蘇鉄敷地は二千坪、其代金一坪に付き道路の両側は一銭、南側は五輪とす

二、     二、耕地は宅地より十八町以内の箇所に於て、十区以内を選定し、一区の面積は五千坪以上とし、十区の総面積は一万坪以上とす、

但し、従来の耕地を以て之に充つ、耕地の代価は一坪に付二銭以上、三銭以下の範囲に於て、実地調査の上、各筆の代価を定む、

宅地より十八町以内にある間切又は村有原野にして、国土保安に関係なき部分に於て、将来耕地に適する見込みある箇所は無代にて鳥島人民の希望に応じて交付するものとす、但し同村移住後は此の限りにあらず

 三、耕地の内、甘藷畑、収穫次第、甘蔗畑は、三十七年四月迄に引き渡すものとす

 

 この条件で鳥島の住民は土地を得た。土地の配分の実際は住民にゆだねられたようである。

 政府から17千円の援助を得て(当初は4万円ほどかかる移住経費すべてを国庫負担で賄うことを希望したようだが)、まず、明治36年12月20日に、69戸345名が移住、続いて、明治37年2月11日に31戸183名が移住した。

 なお93名が残っていたが、これは鉱業権者との契約により労務者が6か月交代で残ったものである。

 

 硫黄鳥島にはその後戻った住民もいたが、昭和34年に大噴火の恐れから全住民が移住し、以後は完全に無人島になって現在に至っている。

 また、現在も久米島には字鳥島が存在しており、鳥島神社の鳥居の横には齋藤用之助の名が刻まれた石塔がある。

 

 

2001/9/24

 2005/2/15

 

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